天津は比較的新しい都市である。遡れば新石器時代の遺跡が薊県・宝坻県・北辰区で発見され、天津原住民の存在が確認されているが、長い間都市の形跡はなく、戦国時代(紀元前5~紀元前3世紀)もまだ趙と燕の境に横たわる未開の地であった。
天津の都市としての始まりは7世紀。華北と江南を結ぶ大運河建設事業を推し進めた隋の煬帝によって、608年に黄河と天津を結ぶ運河「永済渠(えいさいきょ)」が開通した。これにより、天津は南方と水路を通じて結ばれ、発展し始めた。さらに唐代には南方から北方へ米などの食糧を運搬する北の要衝として栄えた。その後金代に「直沽寨」という村落が形成され、元代に「海津鎮」と改められた。
「天津」の名が歴史に登場するのは15世紀初頭。1404年、明の永楽帝の頃に「天子経過的渡口」、すなわち「天子がお渡りになった渡し場」という意味で「天津衛」と名づけられた。また、北京に至る重要な海の玄関口であることから「津門」とも呼ばれていた。続く清代には、良好な港を持っていたことや、沿岸部から海塩が採取できたことから急速に発展し、北方を代表する商業都市へ成長した。
1858年4月、第二次アヘン戦争(アロー戦争、1856~60年)でイギリス・フランス連合軍が天津港に攻め込んでくると、国内でも太平天国の乱で苦しんでいた清朝は、同年6月に英仏両国と天津条約を結んだ。ところが1859年6月、清朝は天津条約批准書の交換のために天津港に現れたイギリス・フランス連合軍を攻撃したため連合軍の怒りを買い、翌1860年8月に連合軍に攻め込まれ、占領されてしまう。そして同年10月に結ばれた北京条約によって、天津港は海外に開放されることとなった。
天津港開港と同時に、イギリスは天津の中心部に租界を置き、次いで1961年にフランスとアメリカが租界を置いた。日清戦争(1894年)後にはドイツ(1895年)と日本(1897年)が、義和団事件(1900年)後にはロシア(1901年)・ベルギー・イタリア(1902年)・オーストリア(1904年)が相次いで租界を設置した。その後アメリカ租界はイギリス租界に併合され、8ヶ国の租界が置かれた天津は、河川を機軸に都市としての整備が進められたが、都市全体の構想がなかったために天津の道路網はそれぞれの租界ごとに形成された。
租界が帰還されたのは1943年。しかしその後、旧租界地では大がかりな区画整備・再開発が行われなかった。そのため、租界時代に形成された統一性のない道路網がそのまま今日の都市の骨格となっている。また旧租界地の所々には当時の面影を残す洋風建築があり、それらは市の施設として利用されたり、一般住宅となって市民が暮らしたりしている。
2004年は、既述の「天津衛」設置からちょうど600年の節目の年にあたり、様々な祝賀イベントが開催され、それに合わせるように近年博物館や公園などの施設が続々とオープンしている。また、2008年北京五輪の競技開催地に予定されているため、体育館などのスポーツ施設や、地下鉄などの交通網の整備も重点的に進められている。過去の歴史を抱え込みながら急速に発展しているのが、現在の天津の姿と言えよう。
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